花物語

いくつぐらいの時であったかたしかには覚えぬが、自分が小さい時の事である。 宅の前を流れている濁った堀川に沿うて半町ぐらい上ると川は左に折れて旧城のすその茂みに分け入る。

その城に向こうたこちらの岸に広いあき地があった。 維新前には藩の調練場であったのが、そのころは県庁の所属になったままで荒れ地になっていた。 一面の砂地に雑草が所まだらにおい茂りところどころ昼顔が咲いていた。 近辺の子供はここをいい遊び場所にして柵の破れから出入りしていたがとがめる者もなかった。 夏の夕方はめいめいに長い竹ざおを肩にしてあき地へ出かける。 どこからともなくたくさんの蝙蝠が蚊を食いに出て、空を低く飛びかわすのを、竹ざおを振るうてはたたき落とすのである。 風のないけむったような宵闇に、蝙蝠を呼ぶ声が対岸の城の石垣に反響して暗い川上に消えて行く。 「蝙蝠来い。 水飲ましょ。 そっちの水にがいぞ」とあちらこちらに声がして時々竹ざおの空を切る力ない音がヒューと鳴っている。 にぎやかなようで言い知らぬさびしさがこもっている。 蝙蝠の出さかるのは宵の口で、おそくなるに従って一つ減り二つ減りどことなく消えるようにいなくなってしまう。 すると子供らも散り散りに帰って行く。 あとはしんとして死んだような空気が広場をとざしてしまうのである。

『花物語』寺田寅彦(青空文庫)