独り旅

 汽車がA駅を通過する頃から曇って来て、霧で浅間の姿も何も見えなくなった。冷たい風と一緒に小雨が降り出して、山際の畔で、山羊が黙々と首を振っている。三つめの駅で汽車を降りた時には、もう日が昏れかけていたし、自動車もあるにはあったが、目的地まで半里だというので、ナニ歩けないことはない――脚には少し自信があるので、私は日和下駄のまま歩き出した。

 街はずれで、青い事務服をお揃いに被た娘さん達の群に逢う。この辺の女工さん達が監督に引率されて、遠足にでも出かけた帰りらしい。雨に濡れながら駅の方へ急いでいた。街を出はずれると、それっきり人ッ子ひとり通らない。雨はますます激しくなり、道は爪先き上がりになってくる、所々にある木小屋なども見えなくなると、左は奥深く真っ暗な落葉松の森林だ、右は崖っぷちで、もうもうと立ち罩めた霧の底を流れてゆく水勢だけが、見えないので不気味にすさまじい。しまった、と思ったが、引き返すのも口惜しかった。だがこんな処で霧に包まれてしまったら、どうなるのか解らないという不安に私は段々駈られ出した。歩くにも何一つ目標がなく、眼前に折り重なっていた山々も悉く姿を消してしまって、ただ自分だけが、雨と汗にぬれそぼちながら、徒に霧の中を泳いでいるのだった。少しでも薄暮の光のあるうちに、目的地まで辿り着こうと私は焦った。然し一度来たことのある山路なので、あまり迷いもせずにやっとめざす、その旅宿の灯を見つけることができた。

 七月もまだ初旬なので、泊まり客は僅かしかいなかったが、前に来た時には田舎のお盆で、庭に盆踊りがあるとかで、一つも空いている室がなかった。宿屋といってもこの辺には此処一軒きりないので、時間はもう夜の九時だし、今さら東京へ発つにも発てず、その時程、私は困ったことはなかった。「何処か寝かしてだけ貰うところはありますまいか」「さあ何処も一杯です」「物置の隅でもかまわないんですが」私はこんな押し問答をしながら宿屋の土間に突っ立っていた。するともう一人私の背後に女の人がいて「何処かに割り込まして貰うことはできますまいか」といっていた。「さあ困りましたね、大抵男の客ばかりですからね」と宿屋でいった。「男の人の傍でもかまいませんから」こちらは女二人になったことを気強く意識して交渉し出した。とうとうその混雑の中へ泊まることができた。