タイトル

ロンドン・キャムデン町なる二つの急な街の侘しい黄昏の中に、角にある菓子屋の店は葉巻の端のように明るかった。あるいはまた花火の尻のように、と言う方がふさわしいかもしれない。なぜなら、その光は多くの鏡に反射して、金色やはなやかな色に彩どられたお菓子の上におどっていた。この火の様な硝子に向って多くの浮浪少年等の鼻が釘づけにされるのであった。あらゆるチョコレートはチョコレートそれ自身よりも結構な赤や金色や緑色の色紙に包まれていた。そして飾窓の大きな白い婚礼菓子は見る人に何となく縁の遠いようにも見えまた自分に満足を与えるようにも見えた。ちょうど北極はすべて喰べるにいいように。こうした虹のような刺戟物に十一二歳くらいまでの近所の小供を集めるのは当然であった。しかしこの街角はまた年を取った若者にとっても魅力があるのであった。さてもう二十四にもあろうという一人の青年がその店の窓をのぞきこんでいた。彼にも、また、この店はもえるような魅力であった。しかしこの引力はチョコレートのみでは説明されるわけではなかった。と言って彼はチョコレートを軽蔑しているわけではなかったが。

彼は丈の高い、肥った赤毛の青年で、しっかりした顔をしているが、物事に無頓着らしい様子をしていた。彼は腕に黒と白のスケッチ用の平たい灰色の紙挟みを抱えていた、そのスケッチは、彼が経済論に対して反対説を試みたために、彼の叔父(海軍大将)から社会主義者と見做されて廃嫡せられて以来、多少の成功を持って出版業者に売りつけていたのであった。彼の名はジョン・ターンバロ・アンガス[#「アンガス」は底本では「カンガス」]といった。

遂に彼は菓子店の中へはいって行ったが、そこを通り抜けて、喫茶店になっている奥の室に通った。そしてそこに働いている若い女にちょっと帽子をとった。彼女は黒い着物を身につけ、高い襟をつけた、優雅な女で非常にすばしこい、黒い眼を持っていた。彼女は註文をきくために奥の室へと彼についてきた。

彼の註文はいつも決まっていた。半片の菓子パンとコーヒーを貰いたいと彼は几帳面に言った。その女があちらへひきかえそうとすると彼はこう言い足した、「それからね、僕は君に結婚してもらいたいんだが」

そこの若い給仕女は急にかたくなって、「まあそんな御冗談をおっしゃってはいけませんワ」と言った。

紅髪の青年は灰色の眼をあげて重いもよらぬまじめな眼光をした。
「全く本当に」と彼が言った。「これは重大なんだ。半片の菓子パンの様に重大なんですよ。菓子パンのように金子もかかるし、不消化だし、それに損害を与えるしね」

若い女は黒い眼を男からはなさずに、しかし彼を一生懸命に鑑察してるように見えた。がやがて微笑の影のようなものが彼女の顔にうかんだ、そして彼女は椅子に腰を下ろした。「ねえ、君はこう考えないかね」アンガスは女のなんにも気にとめないような風をしてこう云った。
「こんな半片の菓子パンを食うなんてちと残酷じゃないだろうかね?これはふくれさせて一片パンにしたらいいね。僕達が結婚したら、こんな残酷な遊戯は、僕はやめてしまうね」

『見えざる人(原題:THE INVISIBLE MAN)』チェスタートン作 直木三十五訳(青空文庫)
class名psであとがき用セクションになります。