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約束した喫茶店に入った。陽射しの強い通りを歩いてきたので、暗い店内にすぐには眼が慣れなかった。二、三人いる客に視線を凝らし、由里はまだ来ていないとわかった。どこに坐ろうかと思ったとき、「恒夫ちゃんじゃない」と声がした。

右手のボックスに若い女が微笑んでいる。ある面影が鼓動を伴いながら浮かびあがってきた。しかし、とっさに確信がもてなかった。
「律子さん……、ですか」と尋ねた。
「やっぱり。しばらくねえ、何年ぶりかしら」

恒夫は頭を下げた。律子は同級生、溝口功の姉だった。功と恒夫とはかつて親友だったが、この姉がいたから三日にあげず溝口家を訪問したといえるだろう。ときめきが甦り、胸の奥がじんじん音を立ててくる。
「誰かと待ち合わせ?」
「そうですけど、別に大した奴じゃない」
「私も、大した奴じゃないのよ」と彼女は白い歯を見せた。「じゃあ、こっちでちょっと話さない」

恒夫は少し迷った末、通路を挟んだ律子の隣のボックスに座を占めた。律子は尻を軸に回転して、恒夫のほうを向いた。
「すっかり大人びちゃって、いまどうしてるの」
「就職しました、印刷会社に」
「そう、男の人って仕事を持つと大人になるのねえ」

律子はしげしげと恒夫を見つめた。その真っすぐな眼差しが眩しかった。恒夫は二十二歳、彼女は彼より二つ年上だった。さっき見間違えそうになったくらい、あの頃よりずっと女らしさが増している。看護婦をしているせいか質素な髪型で、まるでおばあさんのように後ろで丸めているのが、かえって項の線を若々しく見せていた。
「印刷会社って、事務のほうなの」
「いいえ、文選工です。活字拾い」

『飛び出しナイフ』佐野良二(青空文庫)
クラス名psであとがき用セクションになります。